アカデミー賞の授賞式に於いて、俳優のウィル・スミスがプレゼンテーターのジョークに激怒して平手打ちを喰らわすという事態が発生した。
全世界へ発信されてしまった氏の行動には賛否両論が巻き起こった。
いや、賛否両論というのは日本のマスコミの表現であって、現地を含め世界的には批判が集中したというのが実情の様だ。
実際に日本のYouTubeのコメント欄では擁護派が多数を占めている。
成る程、日本では賛同、世界では否定、であれば賛否両論という詭弁も完全には否定出来ない。(笑)
日本での論調といえば...
病気で苦しむ奥さんを侮辱されて激怒するのは当然とか、
自分の事ではなく家族を侮辱されて黙っているのは恥とか、
酷い侮辱をしたプレゼンテーターは殴られて当然とか。
一方冒頭にリンクを貼った現地のYouTubeのコメント欄の論調はほぼ全て否定的であり、氏の行動の愚かさを嘲笑するコメントが非常に目立った。
因みに自分は英語は全く読めないので、わざわざコメント欄をコピペしてGoogle翻訳して確認した。(笑)
一体全体この圧倒的な差は何なのかを考えてみて、ある一つの仮説を思い付いた。
「日本は赤穂浪士が美談になる価値観だから」もうコレしかないと思う。
主君の敵討ちなら犯罪も止む無しという家臣の忠誠が賞賛されるのだ。
ご存じの通り実際には思いっきりお咎めを受けているのだが。
かくいう自分も自分の奥さんを侮辱されて黙ってるのは男の恥だと思ったし、平手打ち位当然だとも思った。
暴力は絶対にダメという至極当然な真理が、病気で苦しんでいる正にそこを侮辱されたという感情論で霞んでしまった。
実はこの一件を深く考えた発端は氏の行動に否定的な意見がある事が信じられなかったからなのだ。
だが冷静に考えてみれば、いついかなる時も暴力は完全に否定されなければならない。
そこに感情論が入り込む余地は微塵もないのだ。
前述の自分の仮説を補填するならば、言語的な背景も影響していると思う。
主語の次に動詞が来る英語圏の論理的思考ならば感情論となる目的語は挟まれない。
しかし主語の次に目的語が並び動詞が最後に来る日本語の論理的思考は異なるのではないか。
何はともあれ結論は決まっている。
例え同情の余地があったとしても、暴力行為は絶対に許されない。
既に氏がアカデミー会員から退会する報が伝えられている。
残念な事ではあるが、いろいろ考えさせられる一件だった。
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